自分たちで宿を建てたころ…大工さんは基礎だけ!あとは自分たちで建てる

昭和51年春、父さんは親友のS君とY君と3人で宿を建てるためにサロベツへやってきます。

母ちゃん:全くの素人が、自分たちで家を建てようなんて発想がすごいなあと思うんですけど。

宿主:いやあお金があれば、俺だって大工さんに建ててもらいますよ。お金なんて全く持ってなかったし、銀行はもちろん相手にしてくれないし、結局一番安く家を建てるためには、自分で家を建てるしかないと思ってね。自分では出来ない骨組みなんかを大工さんに建ててもらって、あとの8割ほどを自分たち素人で建てたんですよ。

母ちゃん:実を言うと私、初めてあの建物を見たときは、バラック建てのような宿で、あまりにもびっくりしてぽかんとした記憶があるんですけど。

宿主:何を言うんですか!昔旅人がやり始めた宿は、みんなお金が無かったから新築できないで、廃屋なんかを利用して始めた人が多かったんですよ。だから俺は「俺の宿は新築だ!」て威張っていたんだけどなあ!

初代あしたの城建物

仲間で建てた最初の建物

母ちゃん:そ、その最初のシンチクの宿の場所は、ここから500メートルほど海のほうへ行って、道々から300メートルほど入った、やはり丘の上にありましたが。

宿主:どうせ住むんだったら、何も無い野中の一軒宿が良いなあと思って、最初から豊富町の町中に住もうとは思いませんでしたね。

母ちゃん:ここほど展望は開けてなくて、三方が林、西側がちょっとした盆地になっていて放牧地が見えて、そこはそこなりに、秘密の場所って感じでしたけど・・、あの宿に至る坂道、ひどかったですねえ。

宿主:あれはもともと道ではなかったところに、無理やりブルで押して造った道だったもんで、土が軟らかくて最後の20メートルほどは車が登らなくてね。仕方が無いから、ブロック600個とか、基礎建材を人力で運んだんですよ。

父ちゃんと、宿の西側の景色

宿の西側の盆地は、
牧草地が広がっていた

母ちゃん:人力でですか!!

宿主:ブロック2個ずつ手に持って、3人でえっちらおっちらと。近所の人たちが見るに見かねてリヤカーを貸してくれてね。それですごく楽になりました。

母ちゃん:家を建てているときは、テントで自炊生活をしていたんでしょう。

宿主:5日に一回ママチャリで豊富町に買出しに行って、途中のサロベツ川で洗濯をして、メシは魚肉ハムと卵入りの野菜炒めを味付けだけ変えて、ひと夏ずっと食べてました。

母ちゃん:地元の人たちはどういう目で見ていたんでしょうか。

宿主:警察からはにらまれていましたね。街で盗難事件があると、犯人扱いされたりしてね。犯人が捕まったから良かったけど。近所の牧場の人たちは、赤軍派の残党だと思っていたらしいですよ。温泉ならともかく、こんな山の中に宿なんか建てて、客が来るはずが無い、怪しいって。

母ちゃん:赤軍派だなんて、なんだか時代を感じるなあ!

旅仲間が入れ替わり手伝いに来てくれて、宿は徐々に形が出来上がっていった。しかし、資金が次第に底をついてくる。

宿主:近所の牧場の仕事とか、いろいろアルバイトに行きましたけど、結局どうしようもなくなって、冬は俺とSは出稼ぎに行って、Yは、酪農家のIさん宅に実習生として働くことになったんです。

母ちゃん:Iさんといえば、今でも非常にお世話になっている方ですね。

宿主:このYと言う奴が、誠実でまじめな奴でね。一冬Iさん宅で住み込みで働いてIさんに認められたわけですよ。そこから本当に、地元の人たちとの交流が始まったと言うか。開拓者精神っていうんでしょうかね。ここら辺の人たちは、もともとはよそから開拓に入った人たちだから、一生懸命努力していれば、よそ者でも受け入れて、協力して助けてくれる精神があるんですよ。

母ちゃん:ここ豊徳地区は、戦後に本格的な開拓が始まって、電気もガスも水道も無くて機械力も無かった時代に、原野を切り開いて酪農産業をつくりあげてきた人たちですものね。

宿主:無知ゆえに抱え込んだトラブルとか、いろいろあったんだけど、こんな田舎にせっかく都会から若者がやってきて、一生懸命まじめにやっているみたいだから、一肌脱いでやろうって、近所の人たちが協力してくれたりしてね。

母ちゃん:父さんにとって、Iさんとの出会は、岸さん同様大きなものだったと思いますけど。

宿主:ここで住んで生活していく上で、Iさん一家には物質面精神面でも世話になってね。でもその橋渡しをしてくれたのは、Yです。今では故郷の長崎で、家庭を持って仕事をしているYやSだけどね。一口に仲間と建てた宿って言っているけれど、彼らや旅仲間や地元の人たちや、本当にいろんな人たちに支えられて宿を建てることが出来たんですよ。

翌52年春、工事は再開。そしてついに建物が出来上がるのだ。

私道入り口の看板

初代の看板

母ちゃん:で、いよいよ、屋号を決めないといけなくなりました。

宿主:俺ね、ぜんぜん宿の名前なんて考えてなかったんですよ。で、書類を提出しなくちゃならないときに、どうしようかとみんなで悩んで。

母ちゃん:「タンポポの宿」にしようという案もあったんですって?

宿主:そうそう。春先に、一面にタンポポが咲いていて、きれかったからね。でも結局、一度聞いたら忘れられない名前、と言うんで「あしたのジョー」に城という字を引っ掛けて、「あしたの城」にしちゃった。自分たちのお城のようなもの、と言う気持ちもあったんだけど、本当は、そんなに深く名前を考えなかったんだよ。

母ちゃん:う~ん、「タンポポの宿」というメルヘンチックな名前にしていたら、なんだか客層も変わっていたような気がするけど。。

昭和52年8月1日、営業許可が下り、客室3部屋15人定員の小さな宿、民宿あしたの城はついにオープン。しかし最初の年は、なんと、宿に電話がついていなかったのだ!

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